チャベス移住地

チャベス移住地の歴史

フェデリコ・チャベス移住地(通称チャベス移住地)は、戦後のパラグアイの移住地としては1番目、戦前のラ・コルメナ移住地から数えると2番目の移住地として1953年に入植が開始された日パ混合の国際移住地です

1952年、パラグアイ政府は自作農促進のため、農業改良局を設置し、大地主の利用されていない土地を国が収用し、土地をもたない国内小農に土地を解放する政策を法令化しました。これによって買収されたベガ植民地(イタプア県カピタンミランダ郡)45,000haが、当時の大統領であるフェデリコ・チャベスの名がつけられチャベス植民地の始まりです。

当時、日本人の移住地としては、戦前からのラ・コルメナ移住地は既に満植状態で土地が不足していたため、新しい日本人入植地が求められていました。そして、この頃よりエンカルナシオン市には、既にラ・コルメナ移住地からの転住した日本人移住者が在住していたことと、その周辺地域にドイツ人、ロシア人、ポーランド人などの移住地があったことを背景に、このチャベス植民地への日本人の入植希望が申請されました。

チャベス植民地は、各国の移住者の持つ優秀な技術をパラグアイの農民にも伝えて行く方針で、パラグアイ人および外国人の混合移住地として成立し、チャベス植民地のうち、日本人が入植した約16,000haの地域を「チャベス移住地」と呼んでいます。なお、植民地全体における外国人とパラグアイ人の比率は半々程度で、外国人移住者には、ロシア人、ポーランド人、ベルギー人等のヨーロッパ系が多く、東洋系は日本人だけになっています。

日本人移住者のチャベス移住地への入植は、1952年、ブラジル拓殖組合宮坂国人名義で日本人農業者120家族の入国許可を取り付けた事を受けて、1953年にパラグアイ政府農業改良局との話し合いの結果、チャベス植民地の一部約2,500haの分譲許可をとりつけたことに始まり、1952年の外務省・農林省混合移住調査団の調査の後、現地受け入れ機関として1953年には日パ拓殖組合が設立されました。

実際の入植は、1953年6月10日にラ・コルメナ移住地からの先発入植者として6家族26名が入植したことに始まります。しかしながら、日パ拓殖組合による移住準備が着手されるなか、日本政府の意向としてパラグアイへの移住者送出を行わないという外務省の発言があがるなどの食い違いで、日パ拓殖組合では、一旦農業改良局へ土地申請の取り下げるなどの事態が起きるなどの波乱がありました。

その後、移住者の受付・送出が実現したものの、1955年2月19日に第1次移住9家族59名が現地に到着したときにも、日本から現地受入態勢のための支援がまだ実現されず、資金、受入を担当人員が不足し、収容所の建設はおろか天幕もなく、正確な移住地の地図すらもない状態でした。しかし、そのような現地の事情から送出の中止を伝えても、続々と移住者の送出がなされたため、第1次から第3次までは、原始林に天幕をはっての不自由な生活を強いられることになりました。この受入態勢の美整備から、道路、橋、学校なども全て移住者の手によって作られることとなり、開拓・営農に増して移住者の負担は大きく困難な生活となりましたが、これが後年には移住者の自立精神を大いに高めたとも言われています。

そして1955年6月に第4次、第5次が到着したときには既にチャベス移住地の中に入植に適するロッテ(配耕地)がなかったため、フラム土地拓殖会社と交渉し、現在のラ・パス移住地のフジ地区への入植が始まりました。

その後1956年4月24日の第8次入植者がチャベス入植の最終船となりますが、その後もわずかながら後続移住者が続き、計116家族が入植しました。1957~1958年になると早期入植者は食糧自給が可能となりましたが依然として生活が厳しかった為、先の見通しがつかず、アルゼンチンのブエノスアイレスなどへ転住して花卉栽培を手がける移住者やアスンシオン近郊でトマト等の蔬菜栽培に転じる移住者が増える一方、残った移住者の中では生産を上げ、耕地面積を拡大する人もいました。その後、1973年に訪れた大豆ブームを迎えると、営農形態が機械化による大規模経営に変化した為、土地情勢などの関係もあり、少数の農家が大規模な農地を管理する形となり日系農家の数は減少していきました。

なお、2002年度のチャベス日本人会会員数は28家族で、そのほぼ100%が農業に従事しています。

 

チャベス移住地における営農の推移

入植当初は、原始林の開拓から始まりました。焼畑農業で自給自足を目指したので、寄せ焼きもあまりせず、残僕の中に永年作のツング(油桐)やジェルバ(マテ茶)を植え、間作にマイス(とうもろこし)や棉、豆類が作付されました。

その後、入植3年経ってようやく自給自足が可能となり、増えた家畜の畜力を利用する有畜農業が始められ、永年作物が実を結ぶまでの間の換金作物としてアスンシオンやアルゼンチンのポサーダス向けに人参やトマトといった野菜の栽培を中心とした都市近郊農業が始まりました。しかし、奥地の場合は運送経費と手間がかさむため、畜力経営によるツング畑、マイスや大豆など雑作作付面積の拡大がすすめられました。しかしながらマイスがあまりにも安価なために、60年代からは大豆の作付が増加しました。

本来目指されていた永年作物を中心とした営農形態も、その中心となることが期待されたツングも生産に入ってみると、高値をつけるのは5~6年に一度で、その間は生産費もとれない安値をつけることがわかり、価格の安定した永年作物とはいえず、同じくジェルバも苗作りに技術が必要なことと主な消費市場がパラグアイ国内に限られ、アルゼンチン市場への輸出が困難であったこと、次に着手したポメロは苗木を植え付けた初年度に大霜に襲われ大打撃を受けるなどいずれも期待が持てないのが現状でした。

そして野菜栽培にも量産には限界があることがわかるなど、60年代後半の不況な時代には養蚕が登場しました。日本企業によるパラグアイ絹糸工場ISEPSA(イセプサ)の設立と、事業団からの養蚕融資という後押しもあり桑園の造成が進められましたが、残念ながら期待されたほどの高値もつかず、同社が10年余りで撤退するとチャベスの養蚕業も幕を下ろすことになりました。

その後、果樹、油料作物、繊維作物など様々な作物などが試されましたが、特産となるには至らず、1973年に大豆の市場が高騰したことで一気に大豆を中心とした営農形態が広がりました。大豆ブームで資金が出来た農家では機械化が一気に進み、永年作のジェルバやツングは姿を消し、ほとんどが小麦畑・大豆畑に姿を変えました。。

こうして耕地が拡大される中で、80年始めには既に開拓可能な原始林はほとんどなくなり、隣接パラグアイ人の土地を買いとっての耕地面積が拡大されていきました。その後、大豆の表作を助ける裏作の小麦が、パラグアイの農業政策と相まって品種改良が進み、安定した作物となって移住地の農業経済を支えています。

※ここまでの歴史写真パラグアイ日本人移住50年史「栄光への礎」より引用しました。

 

チャベス移住地の関連地図

 

チャベス移住地の関連施設等

 

参考文献等

  • パラグアイ日本人移住50年史「栄光への礎」(パラグアイ日本人会連合会)

取材および撮影等協力

  • チャベス日本人会
  • 丸山友子さん(日系社会青年ボランティア18回生・チャベス中央日本語学校)
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